2022年9月19日(月・祝)18:00公演
旬の名歌手シリーズ2022-Ⅱ
フアン・ディエゴ・フローレンス テノール・コンサート
おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。
またまた台風がお近くにいるなか、劇場に行って参りました。この日は東京文化会館。上野に行く用事の大半がここね。お馴染みの劇場でございますね。
ディエゴさんにもディエゴさんのレパートリーにもそこまで強い興味はなく、この日も最初は行かないつもりでした。しかし、このような島国に世界的なオペラ歌手さまがわざわざ来てくださるので、選り好みせず行くべきでは?という考えになりチケットを購入。売れ行き好調。大入万歳。
さて感想です。
今回は1曲1曲の感想は書かずにコンサート全体としての主観です。
では、いきましょう。
シャツの下にはインナーを
指揮者のシャツのインナーが気になった。
俗にいうインナー問題(?)。
着てないよね?シャツの下着てないよね?なんか透けてたよね?
興味はないけど、なんかだらしない感じがしてしまって気になった。
1993年生まれとか指揮者としてはフレッシュなミケーレ。これから明るい未来しか待ってないようなお花畑幸せオーラを感じるお兄さんです。うん。お兄さんインナー着て。
肝心の音楽に関しては、とても実験的というかお試しというか遊びというか。仕事というより休暇中の暇つぶしのような感じだった(どんな?)。高いチケット代を払い練習台にされた気分。その責任が全て指揮者にあるわけではないけれど、指揮者の絶対感を思うともう少ししっかりしてほしかった。
指揮者・オーケストラ・歌手の3要素の調和が全くない。本日の主役であり、音楽家という大きな括りでは先輩のディエゴさんについていくかたちでミケーレさんがオーケストラを取り仕切れば良いのに、お若いお指揮者さまはやりたいことがあるのか、オーケストラ諸君を道連れに我が道を行く。しかし、オーケストラも後ろばかり振り返る子供のようになかなか一緒に歩かない。ディエゴはディエゴで主導権奪ってしまえば良いのに、こちらもよくわからない方向にインマイワールド。客席はディエゴの「歌」を聴ければ良いので、そんなことに関心はなさそう。同じシリーズ(旬の名歌手シリーズ2022)の1公演目、ヨンチェヴァのを思い出し、本当に素敵な舞台空間だった再確認。指揮者と歌手の信頼関係(というかもはや愛)とそれについていけるオーケストラの皆さん。ヨンチェヴァと皆さまを思わずにはいられない。思い出して悲しくなった。
オーケストラ
自分たちが得意であろう曲はとてもいいのだけれど、慣れていない(と言っていいのか)曲になると一気に鳴らなくなる。『カルメンの第3幕への間奏曲』と『カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲』はそれなりに響いていて、それなりに聞き応えがあったが、それ以外は空っぽな演奏。魂は何処?カルメンの木管楽器のメロディ橋渡しはめちゃくちゃ綺麗で上手だった。この日のMVPは間違いなくフルートソロパート担当者です。
『ドン・パスクワーレの序曲』は、出だしが鋭利すぎて理解不能。その後も全くワクワク感がない。新国のときは楽しくて仕方なかった序曲が、この公演では苦痛でしかなかった。ここから楽しい楽しい(?)喜劇が始まるはずなのに。1つ1つのメロディの最後が下向きに終わる。序曲だけでの演奏でも、その先の話や展開につながるように演奏するべきではないのか。違うのか。わからない。
アンコールのトゥーランドットの『Nessun dorma』も乗り切らない音がしんどかった。後奏が遠慮がちすぎて、ディエゴの盛り上がりを全く引きつかずに終わり。何がしたいのかわからない。わからなくてごめん。
世界的な歌手に関して
当たり前のことだけれど、今回の感想を書く上で書いておかないと。感想がなくなってしまう。
高音を喉にかけず、一定の響きを保ちながら伸びやかに声を響かせる。音の跳躍の際も難しさを全く感じさせない技術。当たり前に全ての母音が揃い、響きを保ち、ストレスを感じさせずに歌う。オペラ歌手として求められる歌唱技術をほぼ全て持っているのだろうと思った。
アンコールでは椅子に座り、自身でギターを弾きながら歌っていた。座っていても、ギターを弾いていても、声の響きと安定性は揺るがない。絶対に崩れない。さらっとやっていたが持っている声・技術の質の高さ、ブレない歌を歌う強さ、確固たる技術力を生で体験した。
上手いよ。上手いよ。
技術は素晴らしいと思うし、その技術を用いて歌われる歌が聴けることに感謝しなければならない。のですが、しかしながら今回の公演に関して、私、三島は完全なる不完全燃焼。消化不良。
100%好みによる感想になりますが(まあそういうブログだし)、今日も素直に正直にいきましょう。
誰に歌っているのかな?
上の階の席だったということを考慮しても、相手にされていない感じが強かった。オペラ歌手のレコーディング現場を見学しているような。目の前の人(=客席)に歌っているように聴こえなかったし見えなかった。自分の世界にいる。そこに周りを引き込んだりはしない。綺麗な歌声を聴いているに留まり、こちらへのアプローチはなかった。全部同じ歌に聴こえた。一曲一曲の世界感もなく、ただ綺麗な声を楽しむだけの空間。綺麗な歌声を聴けるだけで十分と思いたいが、一流のオペラ歌手、世界レベルのオペラ歌手に対して「お歌がお上手ですねー!」という感想だけで終わりたくなった。(若干だか、声の質(上手い下手ではなく)的に東京文化会館は大きすぎるのではないかと感じた。歌声が聞こえないことはなかったが、他の歌手に比べると音が弱い気がした。響きはあるけどね。)
吸引力不足
ヨンチェヴァ、ガランチャ、また先日聴いたカサロヴァ(感想書いてない)のコンサートに行って、歌を聴いて、共通して言えることは「ステージへの吸引力、絶対に舞台に意識を集める圧力(圧力?)を持っている。」ということ。しかし、ディエゴにはそういったものがなかった。もちろん男性歌手なので華やかな装飾なので誤魔化したり、増したりはできないことはわかる。ただこちらは「どうもオペラ歌手です!」という登場や存在感を期待しているので、その期待に答える瞬間が一秒たりともなかったのは悲しい。出てきた瞬間のオーラのなさ、な。
ファンのためのコンサート
私はディエゴのファンでもなければ、彼がこの日演奏した中に特別お気に入りの曲があったわけでもありません(最初に書いたけど)。しかしながら、歌手や曲が目当てでない場合でも何かしら与えてくれる(もちろん良いものを)のが一流だと思います。もらいにいくわけではないけれど、知らなかった曲の良さや、細かいステージパフォーマンス、言葉の扱い方等、思い返すと色々と素敵な出会いや発見を与えてもらったなと思います。ただ今回はそのようなものが1つもなかった。
なかった原因としては、そもそも私がファンではないからという答えに行き着くしかありません。ファンのために歌っていて、ファンが満足していた。オペラ好きや音楽好きではなく、会場にいる人全員にではなく、ただ自分のファンのために。だから私は外野だった。外野だから楽しめなかった。ターゲットになっていないのだ。
大事なことだとは思います。異国にいる自分のファンを大切にしているのは本当に素敵なことで、私がファンサイドであればとても幸せな時間だったと思いますよ。ギター持って弾き語りされたら嬉しくてしょうがないでしょう。
しかし、それだけでいいのか?劇場に来た全ての人を満足させるパフォーマンスをすることは誰だってできない。けれど、この公演はそれすら目指していない気がした。ファンのために歌いファンが喜び公演は大成功。それでいいのだと思う。いいんだよ、結果大成功なんだもの。でもなんか私だけ取り残されたようで孤独の極み(私の問題)。
私の好きなオペラ歌手のあり方とディエゴというオペラ歌手が全く被っていないと感じた。
別に否定したくて聴きに行ったわけではないのだから。
でも、「劇場でこの人が出てるオペラが観たい。」とは思えなかった。
世界的な歌手は「好き嫌い」の枠を超えて感想や共感を与えてくれると信じていたがそうでもないのだ。
いい勉強になった。
ではまた劇場で!
オーケストラ:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
指揮:ミケーレ・スポッティ
テノール:フアン・ディエゴ・フローレンス