2022年10月5日(水)17:00公演
新国立劇場オペラパレス
おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。
三島でございます。
この日は新国立劇場に行って参りました。
2022/2023シーズンの開幕1作目の公演です。
おめでとうございます。
平日の公演ということと終演時間が遅い演目ということのせいか客入りはそこそこで空席が目立ちましたが、そに反し客席は盛り上がりを感じました。ロビーもいつもより騒がしかった気がします。コロナ感染対策への意識の低下のせいなのか、もしくはシーズンの始まりとようやく上演できるバロックオペラということが関係しているのか。初日ではありませんがお祭り感がありました。良いことです。
そういえば、新国立劇場の来場者カードの記入が不要になっていました!
結局最後まで紙対応だったのかな?ネット等で事前に登録できたり公演の幕間等に書くことができないのが不便だった。絶対に入場時に記入しなければならない。確実ではあるけど、入場時は人が集中するから逆に密集で意味なくね?みたいな。ご丁寧に公演名を入れた紙を作るくらいならもっと早く購入時情報の活用を考えてくれればよかったのにな。そういうことをやるのは時間がかかるものなのか。社会って大変!来場者カードは回収した後どうやって保管していたのかな。席順に並び替えている?PC上でのデータにするのかな?大変そう。まあもうなくなったなからいいのけれど。
本公演「ジュリオ・チェーザレ」はもともと2019/2020シーズンのラインアップに入っていました。そうです。我らが(我らが?)「エウゲニ・オネーギン」と同じシーズンに上演されるものでした。懐かしいですね。時々思い出しては震えてしまう「あの」新国オネーギンですよ(まだ言うのか)。新国オネーギンは今そっくりそのまま上演されたらまた違った捉え方ができたと思う、ような気がする、いやそんなに大人になっていない。オネーギンの話が始まりそうだからやめます。そうです。チェーザレさんの話です。2019/2020シーズンはご存知の通りの世の中になり、シーズンの折り返し以降にいたこの公演は上演不可となりました。当時は残念とも悔しいとも思いませんでしたが(本音)、2019/2020シーズンの際に観る予定でいましたので、時を経て上演が叶ったことはとても嬉しく思います。
では感想いってみよう。
オペラの感想ってどう書けばいいかまだ悩んでいます。
曲ごとや幕ごとに書きたいときと歌手ごとに書きたいときがあります。
今日は歌手ごとです。
マイクをお忘れで?
タイトルロールでありながら、本公演の「大丈夫ですか?大賞」を受賞致しましたチェーザレさんです。カウンターテナーが歌う(演じる)ことがありながらも今回は遠いところをおいでなさったメゾソプラノが歌いました。ベリーショートが似合うお顔立ち、シュッとした容姿が男の人の役にとてもよくハマる。オクタヴィアン(ばらの騎士)をやってほしい。
肝心の歌唱はどう感想を言えばわからない。
アジリタは転がる。高音を伸ばすところもひっかかることなく綺麗に伸びるし響く。
しかし、声が聴こえない。届かない。多分、アジリタ部分は転がすこととブレスを長く持たせることを考慮しすぎて(多分だけど)、声量をかなりセーブしているような気がする。レチタティーヴォやアジリタではない部分(ダ・カーポアリアのBパートの最後が多かった)は声量もあり客席にスッと声が届いていたが、アジリタになると声が引っ込む。発声のポジションや響きの問題と言うよりかは、声量をセーブしている結果、超小声アジリタになってしまっているのかではないかと。小声でアジリタができることもすごいんだけれどね。プロフィールを拝見したところ、バロックオペラのレパートリーは多くお持ちなので、決してアジリタが苦手だったりバロックオペラが主力ではないというわけではない。彼女の中の歌唱法の1つなのかもしれない。
しかし、新国立劇場はシビアなつくりをしている。劇場の構造を勉強したわけではないので、私の耳を持っての体感だか、新国立劇場はなんでもかんでも響かせてくれる優しい劇場ではない。あいつは優しくない。小さい声や響きがない声は簡単に切り落とす(切り落とす?)。彼女のアジリタは声自体に響きがないわけではない(=喉発声ではない)が新国立劇場は拾ってくれない。
高音の響きは綺麗だが、中低音がこもり気味なのもアジリタが届かない原因の一つかもしれない。
もう一回言っておこう。
アジリタはよかった。でも声が届かない。発声は悪くない。
しかし、残念ながら、新国立劇場で歌うならマイクが必要。
オペラ歌手ってマイクという文明の力に頼れない分、劇場との相性に自分の歌唱が大きく左右されますよね。
もちろん弘法筆を選ばずであるべきだけれど、自分の実力が提供できないと思うならば選んだ方がいいよね。ね?
クレオパトラオンステージ
ここにもいたかオペラ女優。
私は私の中でオペラ歌手とオペラ女優(俳優)という言葉を使い分けていて、オペラ歌手として高水準を保ったパフォーマンスをしつつ、役者ばりのお芝居を観せてくれる歌手をオペラ女優(俳優)と呼んでいます。もちろん敬意を込めて。
来日される外国の歌手には多い(というかほとんどそう)ですが、日本人でオペラ女優と呼んでも良いのは、本公演を観るまで中村恵理だけでした。しかし、本公演にて2人目が誕生しました。おめでとうございます。ありがとうございます。
森谷真理さんは、先日の川崎の音楽フェス(フェス?)にてシュトラウスおじいちゃんの4つの最後の歌を聴きました。その時は、音の安定感やドイツ語の発音がはっきりしていたあたりは素晴らしいと思いましたが、特に刺さるほどの衝撃もなく、そんなものかなあという印象でした、なのでこの日も特に期待せず、そんなものだろうなという気持ちで聴くつもりでしたが、しかし、なんと、衝撃の完成度。
歌はちょっと置いておいて、まずね、めちゃくちゃ動ける方でしたよ。びっくり。シュトラウスの歌曲からは想像できなかった。あなた歌曲歌っている場合じゃないでしょ。いや歌曲も大事なんだけれど。ぜひオペラをたくさんやってください。オペラの方が輝くし魅力大爆発だった。アリア歌唱時の時間の動かなさがバロックオペラだと強調され(アリアだからそれであっているのだけど)、クレオパトラ以外は発表会コンサート感がありましたが、クレオパトラは表情含め音楽の上に表現が乗っかっているというか、歌っている内容と彼女の動きに無理がないように見えました。声を保つためだと思いますが、歌っているときに顔が固まってしまう(無理矢理笑顔で踊るバレリーナのような)のが最初は気になりましたが、2幕以降は表情も柔らかくなったので気になりませんでした。逆に1幕はなんだったのか。
歌はアジリタが転がる転がる転がる。3幕の「Da tempeste〜」は楽しくなりすぎて私も踊りたくなった。最初から素晴らしかったがダ・カーポアリアのAダッシュと呼ばれる技巧とセンスが問われる部分は、もうそんなに装飾しなくていいよと言いたくなるくらい(もちろん褒めてる)音が多いしめちゃくちゃ転がる。ちょっと混乱。ブレスの取り方も自然だし、声も安定。声量のコントロールが普通の歌唱部分より入ると思うので、アジリタ部分の声量は落ちるが、声はしっかり届く。そんなに転がるなら、アジリタがない曲や少ない曲を歌うのは逆に損なのではないのか。無理矢理でもアジリタをねじ込んだ方がいい。
日本人離れした歌唱をするわけではないが、日本人歌唱(ってなに?)の枠に収まりながらも、他の歌手とは一つ線を引いたような歌唱をする。的確な言葉がわからないけれど、収まっておきながらも収まってないような感じ。とりあえず中村恵理とバチバチソプラノ対決オペラをやってほしい。見応えあるぞ!演目がないぞ!
イタリア語げ不鮮明すぎる気もするが、歌えて動けることは間違いないので許容。ドイツ語の方が鮮明なのも日本人歌手としては珍しくないか?
退屈しがちなバロックオペラのアリアを素晴らしい歌唱技術で満足させ、また役者として動きまわり目までも飽きさせないパフォーマンス。ありがとうございます。
クレオパトラの身内
声がいい。
声がいい。
声がいい。
以上です。
この公演のものに限らず、何回かインタビューを読んだことがあり漠然と「すごい人」だという認識になっておりました。ハードルをあげてしまっていたんだね。ごめんなさいね。いい声なんだけどいい声で終わるというか。アジリタも特別綺麗ではないし。声がいいからよく聴こえるけれど。うん。
日本にいるということ
新国では以前の公演、イオランタでエブン=ハキアを歌った日本在住ロシア人バリトン歌手。
骨格が西洋人だから声の響き方は今回の歌手の中で一番良い。よく届く声だし、バリトンらしく低音も綺麗。声自体の重みが心地よくエブン=ハキアやオネーギンを聴いた時よりもよく聴こえた。ロシア人なのにロシアものより上手く聴こえるものかとしみじみ思った。でもそんなものよね。日本人オペラ歌手全員が日本歌曲上手く歌えるのかと言われたら全員ではないだろうし、日本歌曲はまた違う難しさがあるだろうし。難しいところよね。魂レベルでは他国の人より歌えるのだろうけれど、自分の歌唱技術を生かせるのが必ずしも自分の国のものってわけではないのだな。
歌はそれなりだった。アジリタはあまり転がってなかったけれど。アジリタの終わりの方はオーケストラとお別れしていた(=歌が遅れをとった)けれど。指揮ガン見勢だったけれど。でもバリトンがバリトンの仕事(何それ?)をしていた感じがあったのはよかった。
体格が良くこの公演の歌手の中で1番舞台映えする。だからこそ動けなさが人一倍目立つ。1つ1つの動きに何か意味があるのだろうけれど、どの動きも所在なさげでフラフラしれいるだけに見えた。無駄に動いている人に見えてしまった。堂々とはしているのだけれど説得力がない。役がどうのこうのではなくてね。ステージ慣れしてないように見えてしまう。
ロシア人が日本人っぽくイタリア語でオペラをやっているという印象。
「日本人っぽく」は削っていいよ。
息子(劇団ひまわり)
お腹がお留守。全ての音と言葉が胸から上で発声されているような歌唱。「e」「i」などつまりがち・潰れがちな母音が全部つまるし潰れる。アジリタは何をやっているかわからないレベル流れる。声も届かない。「子供」という設定にこだわりすぎてか、勉強材料が子役のお芝居だったのかわからないけれど、ものすごく作られた「子供」だった。イオランタの時にも書いた気がするのですが、役の年齢に合わせたお芝居はしなくていい。そこはオペラに求めないし、求められていない。逆に無理が出ちゃうから。逆に実年齢がでちゃうから。子役のお芝居を真似した大人になっちゃうから。気をつけよう。
クレオパトラの横のおかっぱ
すごく面白い仕事をしている。細かいお芝居(というか小芝居)をしている。表情や動きで面白さを出す。一歩間違えれば滑稽になるが、ギリギリのラインで成立できているように感じた。客席がついていけてない感じがあったし、正直プログラムの演出家のコメントを読まないとシリアスなのかふざけたいのかどっちかにしろよと思ってしまうかも。でもいい仕事していたと思います。歌は声が良いとは思うが、高音はめちゃくちゃ押す。
演出に関して
演出の感想というかメモ。所感。まあ全部そうなんだけど。
パリ・オペラ座のガルニエ宮で2011年に初演されたものを今回日本に持ってきました。
博物館の裏側で展開される物語は、無理のない現代版というか、現代ではあるがチェーザレさんがスーツを着て登場するような無理矢理感はなく、作品の時代設定を忘れずに効果的に現代に入れ込むというようなとてもユニークで完成度の高い演出。交差しないようで時たま交差する2つの時間軸がまた面白い。絵画や像などが舞台セットとしてたくさん出てきますが、どれも安っぽくなく、興味をひくものとなっておりました。大きい劇場で真面目に(という言い方が適切なのかはわからないけれど)バロックオペラをやると舞台空間が空白だらけになりそうですが、この演出は空白を出さず隙間をつくらず、舞台全体を使い物語を展開させる。とても好みです。
美術品の搬入をする人たちも一歩間違えれば「舞台セットを移動させているだけ」になりますが、演出が行き届いているため「博物館で仕事をしている人たち」になる。歌手や役者がステージに持ち込めるかは別として舞台には無駄がない演出になっている。アリアを歌っている後ろで動く人々や絵画や像などのセットも長いアリアを退屈させない効果が発揮されている。
愛おしき新国合唱団が舞台に出てこないのは寂しいけれど、助演の方たちが出すぎず出なさすぎずの適度なお芝居をしてくれるので、違和感なく作品に溶け込んでいてよかった。
求めるなら、求めていいのであれば、アリアを聴くことに集中すればいいのか、それとも舞台後方で動いているセットとお芝居(小芝居)に注目すればいいのか迷うくらい、困るくらい、両方の要素がバチバチしている公演にして欲しかったです。演出は申し分ないです。私の好みでもあるし、好みでなくても完成度が高いの好きになったと思います。しかし、歌手によっては歌唱よりも他の演出が面白くて、後ろで動く人たちを見ていたら終わっていたということが起きました。言い方を変えれば、演出が派手(ではないのだけど)すぎて歌手が食われている。あくまでメインはアリアを歌っている人なので、そこは集中させる力は持っていて欲しい。そこから聴く聴かないは客席の判断だけれど聴かせる力・気をそらせない力は必要じゃね?って話です。演出と歌手のレベルが同じ水準にあってこそ両方が光り、こちらが忙しくなる。結果満足するし、今度はあちら側を観ようとリピーターにもなる。そのような水準で行われる公演であってほしかった。
最近なんでもスタンディングオベーションだよね。
そりゃ歌手は歌いやすいわな。
ではまた劇場で。
ボリス・ゴドゥノフが迫ってきている。
パニック!