三島の見解

見ると観る、聞くと聴くは使い分けておりません。

【リサイタル】ナタリー・デセイ &フィリップ・カサール デュオ・リサイタル

2022年11月9日(水)19:00公演

ナタリー・デセイ &フィリップ・カサール(ピアノ)

デュオ・リサイタル

東京オペラシティ コンサートホール



 

 

 

 

 

 

おはようございます。

こんにちは。

こんばんは。

三島でございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

この日は、ワールドワイドソプラノことナタリー・デセイさん(以下敬称略)のリサイタルに行きました。

デセイ来日してくれてありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

入国規制が緩和されたおかげか来日歌手が増えていて嬉しい限りです。

選り好みをしつつ色々な歌が聴きたいお年頃なもので(?)。

 

 

 

 

 

 

 

当日券は出ていた(多分)ものの客入りはそれなりで平日の夜でもきちんと集客できるものですね。この公演はオーケストラ伴奏じゃなくてピアノというのもいいよね。しかもピアノ伴奏ではなくデュオというタイトルにしているのもいいよね。チームでやってますよ!みたいな。パンプレットや広告の文字サイズも同じだし。なんだか暖かい。そしてこの劇場は傾斜が緩く見にくい。コンサートホールだから諦めるけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大満足なリサイタルだった。ピアノ伴奏が好きだなあって思った。

オーケストラ伴奏ならもうオペラを上演しておくれよ、と思ってしまうので。

 

 

 

 

 

 

 

 

ではリサイタルの感想いってみよー。

 

 

 

 

 

 

 

 

この柔らかなレースの中で

プッチーニ先生です。嘘です。歌ってません。

 

 

劇場全体をレースというかヴェールというか、そのような薄く柔らかいもので包むような歌声だった。デセイの声が響き渡る空間が特別で貴重で。幸福に包まれる。声の響き方が一直線でなく、天井から降ってくるような感覚だった。「天井がない声」というのはよくわかりますが、「天井から降ってくる声」というのは新鮮で、人間の声ってこういう響き方もできるのね、と思いました。デセイが人間ならばの話しですが。声が降ってくる度に薄いヴェールがかかるようで、美しく、尊く、儚い。「天使の声」という表現があるかと思いますが、これからは「デセイの高音」でいいのではないでしょうか?

 

 

 

 

中音域はとても柔らか。でもって軽やか。重さがない。重いソプラノが大好物な私ですが、デセイの声は好みから飛び出して「大好き」になった。重さはないけれど芯はあるからフワフワしないし上擦らない。軽いからといって浮ついたりもしない。スピントのようなパンチはないが(当たり前)、丁寧な技術にひたすらボディーブローを受けている感覚になる。ジワジワとデセイの歌声に体が侵食されていく。美しすぎてため息。

 

 

 

 

そして、輝く高音。高音を出す度に声がキラキラと輝く。声が輝くっていう表現じゃなくて声が輝いているの!きらめくの!声自体がキラキラしているの。ねえ、わかって!!高音のときに輝きを増すその声に心臓を掴まれた。f力まずに中音域の出し方のまま高音を出す。全部が一定。正確に言うと「e」や「i」の母音に変化がない訳ではないけれど、そのあたりに聴いていてストレスはない。もう、うっとり。もうちょっと苦しそうに歌ってくれよ、と言いたくなる。

 

 

 

 

デセイはお辞儀が丁寧だった。

ピアニストも丁寧だった。

サイドの客席にも挨拶をする心配りに舞台の上に立つ人として、

聴いている方にも敬意があるのだと感じた。

(舐められがちな日本人より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

pianissimoで客を弄ぶ女

ピアニッシモが素晴らしすぎる。pianissimo(公式)。本物です。どの曲のpianissimoも素晴らしい。pianissimoと共に生まれてきた女。だんだん「私、pianissimoさんに弄ばれてるな。」と思ってきた。人の声はそんなに美しいpianissimoが出せるのか。というかそんなにコントロールできるものなのか。「小声」じゃない。美しい響きを持ちながら、効果的に小さい音を出す。そんな器用にできるものなのか。なんなんだ。「モンテカルロの女」の最後と「ヴィラネル」の同じく最後が一番素晴らしかった。ピアニッシモ中のビブラートの掛け方も素晴らしく。ロングトーンpianissimoを聴かせた後にビブラートが入ってくる。入ってくるというかなんというか。スーって感じね。

 

 

 

 

 

 

 

ルチアの価値

歌ってないですけど、デセイのルチアに価値があることがわかった。軽やかで的確な高音がルチアの狂乱の場に適さないわけがない。重さのない声が狂ってしまっているルチアにとてもよく合うと思う。みんな知っていることだろうけれど。劇場で聴きたいなあ。全盛期を劇場で聴いていた方にとって今のデセイがどう映るか、聴こえるはわかりませんが、今のデセイも十分素晴らしいと思いますし、歌唱ももちろん、役者としてその役に入っていけるお芝居のレベルも高く、リサイタルでしたがほぼオペラだったと思います。少なくとも日本にいる限りこのレベルの歌唱が日常にはないしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では印象に残った部分を曲ごとに一言感想を言う。

 

 

 

 

 

 

 

Deh vieni〜(フィガロの結婚

1曲目にスザンナを持ってくる強さ。これはですね、言っておきますけど、めちゃくちゃ強いです。初手スザンナは強いです。めっちゃ強いです。きちんと歌うことができれば強いです。

 

 

 

スザンナはそこまでの高音もなければ、技術の見せ所!みたいな部分もないので挑戦しやすいことになってますが(?)、逆にそういった部分がないからこそ聴かせどころもない少ないし、「五線の中はそれほど系ソプラノ」はなるべく避けた方がいい役だと勝手に思っています。スザンナ可愛いからみんなやりたがるけど難しいんだよ!オペラ公演として歌う分には、動き回っていれば他に目がいくからいいんだけど、アリアだけで歌うと「普通」感が出てしまう。しかし、そんなことはデセイには関係ない。第一声から完璧なのである。「Deh vien〜i」の「ni」の部分の軽やかさ。大概そこは詰まるんだがな。この人には関係ない。徹底したレガートが素晴らしく美しい。五線の下にいってしまう「notturna face」は音の低さを全く感じない。勝手に思っていることだが、本当に上手い人は音の高低差を感じない。聴いた後に楽譜を見て絶望させられるまでがセット。「incoronar〜」の上がり方がとても軽やかで高音が輝く。表情も素敵だった。幸せいっぱいなスザンナちゃんがそこにいた。こっちも幸せになった。

 

 

 

 

 

 

L'ho perduta〜(フィガロの結婚

なぜ、ここにバルバリーナを入れるのか。バルバリーナを取り出す歌手って結構珍しい気がする。

 

 

 

 

普通すぎる(と言ったら怒られそうだが)この曲を今のデセイが歌うとどうなるのか。まず、第一声でスザンナとの違いを聴かせる。声質を変えたり、衣装を変えたりそんなことはしていないのだけど、「ああ、バルバリーナちゃんだ。」と何故だか判断できる声。不思議なもので。素晴らしいよね。視線の使い方かな。

 

 

 

 

高音がなくても転がさなくても全然問題ない。技巧で聴かせられない曲ならば表現力で客席を魅了する。バルバリーナの不安を歌唱で表現する。音域が普通(音域が普通って何?)だからこそ表現に幅が出る。他の曲よりも自由に歌っているように聴こえたし見えました。

 

 

 

 

「E mia cugina」と「E il padron」の違いがとても好きだった。「E il padron」と歌うときに恐怖を覗かせると言うか、恐怖がのぞいてくると言うか。恐れている感じを出すのがものすごく好きだった。棒読みではないけど音楽の邪魔はしない。表現が歌の中にあるとはこういうことなのか。分離して考えてはダメだね。ここの使いわけに大きく心が揺れた経験は初めてです。

 

 

 

全ての曲が素晴らしい歌唱でしたが、私はこの曲の歌唱が一番好きです。

 

 

 

 

 

 

 

Dove sono〜(フィガロの結婚

で、なぜかフィガロの結婚より3人目。

同じオペラの曲で違う役を次々に披露。

もう全部やってよ。

ケルビーノもフィガロも重唱も全部やってよ(意味不明)。

 

 

 

 

 

必殺!2回同じことを繰り返すときに違いを見せる!

が炸裂していた。

 

 

 

 

1回目の「Dove sono〜」は暗さがあり、どうしてこうなってしまったのか、という意味が含ませてそうな歌唱表現。絶望の色を含ませた悲しみの「Dove sono〜」であった。対して2回目は思い出に浸っている雰囲気がある。もちろん悲しみもあるけれど、昔の楽しかったときを思い出している「Dove sono〜」でした。同じ文章や同じ言葉にどう変化をつけるかって本当に大事なんだなと改めて実感。何故2回言うのか?何が違うのか?と考える必要がありますね。私が考えてどうするのかって話しだけれども。考えた結果、「一緒じゃね?」ってなればそれもそれでいいのかもしれませんが考えることは必須。声だけで十分なのに表現力もついてくるデセイ最高!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ach,ich fühl’s〜(魔笛

ねえ、やめて、そんな簡単そうに歌わないで。譜面見てびっくりしちゃうからやめて。

「meinem Herzen〜」のアジリア部分は全く難しさを感じさせずに通り過ぎる。本当に通過。どの音も平等なテンションでさらっと歌う。かといってちゃんと歌ってないような歌唱にはならない。レガートと音の独立が同時に行われている。なんだしマジで。跳躍なども、ものともしない。デセイは簡単に歌っているように聴こえてしまい逆に凄さが伝わらないのでないかと心配になる(余計なお世話)。高音のドイツ語の発音を潔く諦めている姿勢も好きですね。ソプラノに歌詞は関係ないのだ!(嘘です)

 

 

 

結局(?)、モーツァルトをきちんと歌える人間が強いのよ。

別に競ってはいないんだけど。でもモーツァルトをマスターしている人間は強いよ。(2回目)

シュトラウスおじいちゃんも我らがチャイコフスキー先生もモーツァルト好きだしね。

私も好きになりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モンテカルロの女

プーランクの音楽にハマりまくる美しきフランス女。最高よ。

 

 

この1曲にいくらでも払えるような聞き応えと楽しさがあった。母国語だからもちろんだと思いますが、言葉がとても自由である。世界が広い。1部のモーツァルトのアリアも十分自由でしたが、フランス語になると更に自由。音も言葉も表現も全てデセイの管理下にある。カッコ良すぎて文章にできません。リサイタルの後に色々な方を聴いてみましたが、デセイのが一番好きだ。モノオペラの魅力に気づけました。

 

それにしてもプーランクの音楽のお洒落加減は暴力。最高。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝石の歌(ファウスト

もし私の願いを聴いてくれるのであれば、トゥレの王から始めて欲しい。

 

 

 

 

 

この曲はピアノのキラキラ度合いが素晴らしかった。前奏は前の曲の拍手に被り気味で始まったが、輝く音が拍手の中から聞こえてくる。デセイの声だけでなく、ピアノの音もキラキラする。宝石の歌だけある。ピアノの音が好みすぎてしんどかったのは「Ah! je ris de me voir Si belle en ce miroir!」の後のピアノの下降音形。最高にきらめいてた。ニヤニヤしてしまった。私が宝石見つけた気分よ。幸いなことに繰り返しがあるのでもう一度同じ音形があるので、心して、構えて聴きました。この1小節を耳に覚えさせた。

 

 

 

 

 

「Ah!〜」の感嘆詞の使い方がすごく好みだった。ここも2回同じことを繰り返します。そうです。使い分けのお時間です。1回目の「Ah!」は驚いた表現。宝石を間近で見て感動しているような感嘆詞。2回目の「Ah!」は身につけてみてうっとりしている表現。多分1回目の「Ah!」の方が音を短く(=早めに切っている)している。2回目はため息に近づけるような声の出し方。細かい部分が音楽全体を立体化する。魔法である。

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴィラネル(アンコール)

言葉といい歌唱といい自由だな。こちらも伴奏がキラキラで。はい、何よりです。ヴィラネル好きじゃないのですがデセイのこれは納得。美しい。好きになる。最後のpianissimoが素晴らしすぎて逆に怒り。なんなんだ。なぜそんなことができるのか。装飾音にテンションを持ってこないのも素晴らしい。細かい部分ほど力んで歌う歌手が多いと感じていますが、デセイは装飾音が装飾音をしている。仕事をする装飾音さんたち。1つ1つの音は独立しつつも大きな流れがあるから切れることはない。フランス語で歌うデセイは最強。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこを切り取っても素晴らしく、本当に冗談抜きでリサイタルが2秒で終わった(嘘です)。体感2秒。時間が経つのが早すぎる。1曲1曲は濃密だが、飽きさせない。暇になる時間もなく、本当に「もう終わり?」という気持ちで帰宅した。声に重さがないことの素晴らしさ、どの曲も軽々しく(褒めてる)歌う技術力。その技術の上にしっかり乗せてくる音楽表現。音楽と両立する演技力。素晴らしい。歌えて芝居もできる歌手は本当に大好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満足。満足。

デセイ、またきてね。

デセイらぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ではまた劇場で。