三島の見解

見ると観る、聞くと聴くは使い分けておりません。

3回目【オペラ】ボリス・ゴドゥノフ(新国立劇場)

2022年11月26日(土)14:00公演

新国立劇場

オペラパレス

ボリス・ゴドゥノフ

 

 

 

 

 

 

 

 

お世話になっております。

三島でございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日は新国立劇場ボリス・ゴドゥノフ千秋楽でございました。

お疲れ様でございました。

よく頑張りました(私が)。

 

 

 

 

 

 

 

公演としては5回目、私、三島は3回目の観劇でございました。

怒りの初日、ネタの2回目、辛いが真剣に向き合った千秋楽といったところでしょうか。物事は同じことを繰り返すことにより上達するものなだと思っておりますが、これほどまでに3回とも同じような技術的な感想を持つことはあるのでしょうか。不思議ですね。

 

 

 

 

 

今回の感想は歌唱部分よりも演出というか動きとして気になった部分を主食としております。そうです。食べましょう。歌の感想書くとほぼ同じ内容になってしまうので。まあ書くとは思いますけど。それが事実なのでしょうがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

(怒りの初日の感想はこちら↓)

 

mishimashikahika.hatenablog.com

 

 

 

 

 

(ネタ化した2回目の感想はこちら↓)

 

mishimashikahika.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では千秋楽の感想にいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖愚者の声

1番素晴らしかったことに関して今までほとんど書いていなかった。

 

 

清水さんはブレなく3回とも安定の歌唱だった。

 

 

 

 

この演出では聖愚者はボリスくんの息子であるフョードルと同一人物として描かれているので「聖愚者」として清水さんは登場しません。しかしながら「聖愚者の声」としての役割を全うしておりました。オペラ歌手として仕事をきちんとしていた片方です。もう1人はピーメン先生です。

 

 

 

 

 

まず、最初の歌唱(ボリスくんと会話するところがある部分)に関して。出だしのオーケストラがちゃんと入ってきた。よかった。ボリス・ゴドゥノフというオペラの音楽は、場面転換や気持ちの変化に対する音楽の移り変わりが多彩であり、かつわかりやすいと思います。モティーフなど難しいことを考えずにフィーリングで捉えることができるようなわかりやすさです。

 

 

 

 

 

 

千秋楽のこの部分は、前の場面との空気の入れ替えが唯一できていた部分な気がします。どの場面もオーケストラが「ヌルッ」と入ってくるので変化がわかりにくかった。良い音楽を聴いているときは、その変化にいちいち心を動かされますが、そういったものがないのがほぼないのが新国ボリスくんです。深刻です。時間差で「あー、〇〇の場面かー。」と気づくような音楽効果のなさ。しかし、この場面に関しては鋭利ではあるが、聖愚者の歌の神秘性と不気味さのある雰囲気をアピールするような出だしと、テノールの声がよく映えるような重みのあるオーケストラ演奏がありました。珍しく音楽がそこにあった。

 

 

 

 

 

 

清水さんの声は丸みのある柔らかい声で聴いていて不快感がないです。キンキン系じゃないテノール大事!その丸みの中に暗さというか不安定(音がじゃないよ)さがあり、聖愚者という人物が一般人と一線を引く存在であることが表現されている。テノール(偽ドミトリー)とテノール(シュイスキー公)がそれなりにひどい不安定な歌唱をするので、舞台上にいないからという歌に集中できるという部分もあるのかもしれませんが、素晴らしい歌唱をした清水さんの声は光る。カーテンコールで拍手がその他の人と一緒くらいの大きさだったのが気に入らない(我儘)。跳躍部分のストレスのなさが素晴らしい。是非ともストライプダブルスーツおじさんことシュイスキー公に教えてあげてほしい。

 

 

 

 

 

 

その後のボリスとの会話部分に関しては、どうしても視覚(黙役の口パク)と聴覚に時差が発生するので、今日は舞台を見ずに聴きました。目を逸らすことにより歌詞の深みや聖愚者の異質さを感じられて、ボリスくんを刺す言葉であるとともに私自身も刺されているような感覚になりました。未来を語る神秘的な部分とボリスくんを非難する攻撃的部分に清水さんの声が本当に良くマッチしていた。演出家には申し訳ないけれど、私の脳の中で、この部分は聖愚者の場面にさせてもらった。フォードルと一体化させることにより元々の構成の意味を塗りつぶすくらいなら勝手に消します。最後はボリスくんがフョードルを見ずに空中の1点を見ているのが好きです。

 

 

 

 

 

 

 

字幕には大野監督大先生があんなにも言っていた「ヘロデ王の息子がサロメのパパ」の部分の訳がない。ヘロデ王が出てくる歌詞、すなわち「Нельзя молиться за царя Ирода!」の訳でヘロデ王の文字がない(だよね?)。聖愚者に関しても、オペラトークで聖愚者とは?というお話をしておりましたが、今回の演出にはいらない知識(と言ったら雑すぎるが)となっており、オペラトークとこの公演の一貫性のなさを改めて感じます。オペラトーク(今回のオペラ公演のトークではない)でしたね。もしくはオペラトーク(オペラトークとは言っていない)が正しいかな?

 

 

 

 

 

 

最後の歌唱も申し分ない。私は69年版のボリスくんの死で終わる方が好きではありますが、聖愚者の歌で幕を降ろす綺麗さは捨てがたいですね。作品の中では描かれていない部分、その先にある部分を歌唱で描き切るような構成がとってもお洒落が好きです。

 

 

 

 

 

 

とりあえず清水さんに感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舞台後方はないものだと思え

皆さんお揃いが好きなのか、足並み揃えているのかわかりませんが、舞台後方に行くと全く声が飛ばない。聞こえるよ?聞こえる。聞こえる。でも、それは私の耳が頑張って音を拾いにいっているのであってオペラでの歌唱としては成立していないのでは?もちろんピーメン先生は大丈夫ですが。ピーメン先生仲間外れにされちゃったのかな?心配です。なぜ揃いも揃って声が飛ばないのか?シュイスキー公(以下ストライプダブルスーツおじさん)なんて後ろに行きながら歌い、その後歌いながら前に出てくるから顕著に聞こえる位置聞こえない位置がわかっちゃう。みんなー後ろに行かないでー!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シチェルカーロフさん

声は飛ばないけれどこの公演の歌手陣の中で並べたらまあまあいい方に入るであろうシチェルカーロフさん。安定性はありました。でもなんかひっかかるなあと思っておりました。そして!なんと!千秋楽にて!正体がわかりました!シチェルカーロフさんのロシア語の発音めっちゃひらがな!!以上!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は病んでいるソング

ボリスくんの聴かせどころの1つであるこのお歌。

 

 

やはり上手くない。発声は上っ面。高音は押して歌い、低音はそのまま床に落下する。低音響かせられないバスって何?高音でないソプラノより意味わからなくない?歌唱に関してはもうしょうがないからいいけど。いや、よくはないけど。「Слава!Слава!Слава!」の合唱の後の「Скорбит душа〜」のコントラストのなさは気になるなあ。この演出では合唱の中に入ってボリスくんも「やったー!皇帝だー!」と喜んでおります。その後に「実は病んでましてー。」と始まるのでしっかりとした切り替えがほしいなと。表情からは喜びの色を消して「本当のボリスくん」になっているのですが、如何せん歌唱がついていかない。ただの「歌うことに不安な人」に見えた。

 

 

 

その後の6年間の説明ソングでクセニアが落としたハンカチを拾ってすぐ捨てる意味がわからなかったのですが、意味がわかった方教えてください。

 

 

 

 

 

動きの動機付けという部分でもう1つ。この演出では息子のフョードルをボリスくん自らの手で殺す(窒息死?)のですが、最初はどこで決意したのいまいちわからずでした。もちろん本来のオペラのストーリーにはない部分なので音楽的には含まれておりませんよね。初めは「Царевича скорей!〜」(はやく息子を〜)の部分で、息子を呼ぶ=殺すためかと思っていました。しかし、千秋楽で聞いて「Господи! Господи!〜」(神よ〜)の部分かと思いました。ちょっと曖昧だけど。音楽もここで変わりますし。この部分の歌詞は自分の息子を殺すことに対して歌っているという解釈でいいのでしょうか?そしてこの部分を聞いて殺されることを察知したフョードルはベッドからおり脱出を図るという(もちろん脱出できませんが)。そうすると同時に歌われている合唱の歌詞にも合ってくるかなあと。で、本来であればボリスくんの死の場面ではあるけれど、「ボリスくんの殺人(再)」になってしまうと。なんか可哀想じゃね?演出にいじめられすぎじゃない?最終的に吊るされてるのボリスくんなんでしょ?因みにこの部分の歌唱はボリスくん史上1番安定していたと思います。最後だから気合入ったかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音ハメに気をつけて

最初の方のボリスくんが王冠被りました→外しましたのところですが、音楽の切り替えと動作が全く同じタイミングでした。別に構わないのですが、音楽の切り替えってあくまでスイッチであり、そこに動作を当てはめてしまうと一気に平面的になると言いますか、振り付けになってしまうと感じております。ボリスくんが王冠を拒否する気持ちが先にあり、その気持ちが音と同時なわけであって動作はまた別ですよね。この演出だと気持ちの切り替えより先に「王冠を外す」と言う動作がきてしまっているようにみえます。もちろん音楽・動作・気持ちが同じタイミングな場合もありますが、新国ボリスくんはお芝居が苦手なようですのでどうしても振り付け感が出てしまいますね。1拍待ってから動けばかなり立体感が出ると思いますよ。音で動作を把握しているんだろうなあ。気持ちを把握して。王冠を拒否するまで戦略なのかな?

 

 

 

 

 

 

 

ヴァルラームのお歌のときの手拍子もオーケストラと同じリズムで叩くのでダサさが出てました。歌の中なので違和感はないけれどダサい。しかしヴァルラームはお歌が。今思えば初日が1番よかったな。どんどん疲労していった気がします。とにかく声がまとまらないのだ。発声する時に声がさまざまな方向にいってしまって響かない。ただでさえ集まっていない声が跳躍になると更に散らばる。声を出す術として押し出すしかないといったところだろうか。オーケストラいなくなるところが1番怖い。芝居要素が多すぎて忙しいのもあるけれどね。落ち着いて歌わせてあげたい。もう1つ注文つけるなら(?)オーケストラが支えてあげてほしいです。もっとテンポ良く音楽を進ませ導いてあげればまだ乗り切れたかもしれない。歌に先導を任せている感じがあった。難しいね。

 

 

 

音ハメ箇所たくさんあったのです。しかし正確に思い出せないのでこれだけ書いておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワンパターン

フィナーレの集団虐殺血糊フィーバーの場面ですが、蹴りを決める人たちのテンポの良さがダサい。ワンパターンなんだよね。虐殺責任者の方に「前の人が蹴った後に○秒待ってから蹴りに行ってください。」と指示されているような規則正しい蹴りの感覚。そういう虐殺(?)もありかとは思いますが、舞台上で描かれているのは混沌と狂気だと取れるので、規則的に行われることに違和感があります。そこまで入れての「混沌」だったらすごいね。見ていて滑稽で面白くなっちゃった。そこまで狙った演出だったら脱帽ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒場の恥ずかしさ

ヴァルラームの歌は置いておいてこの場面がなぜこんなに恥ずかしいものなのかを考える。考えなくてもわかる。中途半端なのです。露出の多い衣装を着た女性ダンサー(ダンサーなのか?)の動きはゾンビみたい。多分薬物乱用でキマってるという演出なんだろうがこっちがそこまで察さなければいけないほどはっきりしない。ヴァルラームやその他男性が女の子と絡む動作も腰が引き気味でどういう設定なのかわからない。「やりすぎじゃない?」と心配になるくらい下品に動くべきでは?「滑稽な風俗場面」とパンフレットに書いてありますが、「滑稽な風俗場面」ではなく「舞台上にいる人の動きが滑稽な」風俗場面です。大きな違いですねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合唱団の分離

出だしの合唱の遅れ具合は初日、2日目ともに感じたので書きましたが、本日が1番酷かったです。今日はなんとオーケストラとお別れするだけでなく男声と女声でも別れてしまいました。男声がものすごく遅れて聞こえたのです。席の位置なのかなと思いましたが、今まで同じような席に座ってもそのように聞こえたことや感じたことはなかったので本当に分離していたのだと思います。フレーズの最後が子音で終わるときの微妙な時差のせいかな?原因は不明確。でもこれも他2日と同じようにだんだん持ち直し、それ以降は気にならなくなりました。音楽的な崩れはなかったが今日のテノール勢は若干押し気味だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

細かい表情

ピーメンの話を聞いて情緒不安定が加速するボリスくんを眺めるストライプダブルスーツおじさんの表情が気持ち悪かった(褒めてる)。そんな細かい芝居していたのね。ボリスくんを貶める快感と実際にボリスくんが弱っていく姿にニヤニヤが隠しきれないというような表情。ピーメンが殺された後に逃げる姿は「普通の人」すぎて、この辺りで後に統治者になる匂わせができたらもっと面白い人物になったと思う。ただのニヤニヤダッシュおじさんになっちゃったからもったいない。でも細かいことはできるのだと。なお高音は今日もとんでもない出し方で何よりです。跳躍の際の音の位置の離れ具合がそのまま声になっている。流れもなければ良い声もない。その出し方で歌うヘロデ(サロメ)とか逆に気になる。探してみよう。

 

 

 

 

 

 

酒場の場面で、偽ドミトリー(以下偽ミトリー)がナイフを出したことに気づいたミサイールの表情もよかったです。舞台上が暗いのでなかなか見えない部分ではありますが(私もたまたま見てただけ)、細かいなあと。ミサイールの表情を見ていたおかげで偽ミトリーの悪役感が出ましたね。ミサイールがどう思っているのかわかることで悪党感が増すと言いますか。「俺ワルだからー。」と自分で言う人と「あいつワルだからー。」と他人から言われる人でワルの度合いが変わるのですね(?)。その悪アピールの見せ場はピーメン先生を殺しちゃうところだと思います。自分の先生殺しちゃうんだよ?怖くね?その怖さを助長することができるのはヨガ教室第1幕の場面で偽ミトリーが歌う「Как я люблю его〜」の部分だと思います。ここで「好きです(語弊あり)。」と言っているのに殺しちゃうんだから。この部分は音楽もちょっと変わりますし。でも偽ミトリーは通過しましたね。何もなくただ歌っただけだった。まあいいけど。ここでアピールしておいた方が殺した時のインパクトデカくない?せっかくの悪党だからもっと悪党しないとね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クセニア王冠を狙う

ボリスくんとフョードルの地図の場面で外にいるクセニアがどのような気持ちで2人を見ているのかなと思っていましたが、千秋楽でわかりました。クセニアは王になりたいのだと。まさかの女帝希望です。ボリスくんの「Когда-нибудь〜」の部分からずいぶん悔しそうに見えました。「弟のものになるですって?私の方ができるのに!」のようなことを思ってそう。弟が統治できるのか心配しているように見えなくもないですが。正解はどこに書いてありますか?

 

 

 

 

 

 

 

以上です。

こんな感じでした。

 

 

 

 

この演出は台本を書くところから始め、語り手を入れた(要は説明する人が必要ということ)ストレートプレイもしくはミュージカルの方が活きるだろうな。既存のオペラで決まった歌詞と音楽があり歌手の声の安定性を考えるとオペラとしてやるにはレベルが高すぎる。もちろんこの自由な演出に対して音楽でねじ伏せることができる歌手やオーケストラは存在すると思いますが。しかし我が国の劇場では難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなこんなで新国ボリスくんは終わりました。

みなさんよくがんばりました。

わたしもがんばりました。

新国オネーギンの二の舞にならないように成仏させなくては。

いつまでも付き纏う新国オネーギン。

 

 

 

 

 

 

 

 

ではまた劇場で。

サロメカムバック希望。