2019年10月3日(木)14:00開演
2019年10月6日(日)14:00開演
2019年10月9日(水)18:30開演
新国立劇場オペラ公演
エウゲニ・オネーギン
新国立劇場オペラパレス
新国立劇場の新シーズン最初の演目が終了し、1週間以上経ってしまいました。はやいはやい。
千秋楽は台風と重なり公演中止となってしまいました。観劇予定だった方のお気持ちを考えるととても残念でなりません。振替公演があってほしいところですが、歌手や劇場のスケジュール上、厳しいのでしょうか。悩ましい。
最後にまとめの記事を書きたいと思います。
人物解釈の記事を書いた時点ではわからなかったことを中心に書きます。
以前の記事で同じことを書いていても書きます。人物解釈にも後ほど追記しようかな。
個人の解釈でございます。悪しからず。
ラーリナ夫人
今回の演出ラーリナ夫人の性格明確にするものは、2幕1場にあるのでないでしょうか。
まず、タチヤーナとオネーギンが踊っている時に、合唱の噂話のような箇所がありますよね。そのときにラーリナ夫人も噂話に参加しています。楽しそうにお話していました。
「ウチの娘と結婚する予定よー。かっこいいでしょー。」と言っているように見えました。
これを私は【ご近所マウント】だと思いました。地主と農民なのでマウンティングする関係ではないことはわかってますが農民ではなく周辺地主貴族と教えていただきました!(ありがとうございます!)私の低い語彙力で当てはまる言葉がこれでした。新国オネーギンのラーリナ夫人はマウンティング女子なのです。(違います)家庭内より周りから見える【幸せそう】を大事にする人っているじゃないですか。そういう人にみえました。
次に、トリケの歌の最中にタチヤーナが離席し舞台からはけます。タチヤーナがいないことに気がついたラーリナ夫人は、代わりにオリガを座らせタチヤーナっぽく振る舞うように横について見張っています。タチヤーナがどこに行ったのか心配していなかった気がします。体裁が大事というわけです。(当たり前いえば当たり前ですが、母親として心配して欲しいわけであります。)
そしてレンスキーの「в вашем доме~」。この時の合唱は、ラーリナ家の状況をとても面白がっていました。ラーリナ夫人が近くにくると心配をしているふりをして、離れると笑っていました。ラーリナ夫人は笑われていることに気づいており、悔しそうな表情をしてました。つまりマウントを取られてしまったのです。マウンティング女子の敗北(うるさい)です。レンスキーに対してはマジギレ寸前。レンスキー逃げてー。
以上3箇所の芝居を考えると、【母親】であることより【体裁】や【自分自身】が大事というラーリナ夫人なのではないでしょうか?
そういう解釈にすると1幕1場の合唱カットが自然になります。ここの合唱があると、「みんな大好き、ラーリナ夫人!」となってしまうかなと。周りから慕われている感をなしにするためのカット。2幕1場の実は仲良くない(関係)を見せるためのカットなのかもです。時間と場所の都合でのカットかと思ってましたが意味がちゃんとありそうです。
プレトークで「タチヤーナがいじめられている設定」とお話しがありましたが、これを私なりに考えると、ラーリナ夫人はタチヤーナが嫌いなのではなく、【可愛い】の対象がオリガでその反対にいるのがタチヤーナ、なのかなと思います。次女って無条件で可愛がられるじゃん?(当社比)そしてオリガもオリガでノリノリなので、結果としていじめられてる(風)設定になるのかなと。つまり悪意はない。(それが1番ダメなやつですね)
でもオリガよりも自分の(家の)体裁が大事。主としては正しいですが、理想の求める母親像とは全く違う。実に人間味があり、全く美しくない母親でした。(褒めてます)
「現代人の痛いところを突く」演出(sputnikより)が1番よくわかるのがここですね。
フィリッピエヴナ
てっきりタチヤーナのいじめに参加している(嫌ない言い方)と思っていたので、それで納得していたのですが、3日目で違うことに気がつきました。タチヤーナを心配そうな目で見ていました。でも直接的に助けるような、庇うようなことはしません。遠くから見ているだけでした。
ラーリナ夫人に逆らってまで助けるわけにはいかないですよね。ラーリナ夫人とは仲良く、オリガにもなにも言わず、可哀想なタチヤーナを遠くから心配する。良いのか悪いのか。タチヤーナ大好き芸人なので、助けってあげてよって思いますが、そんなことしたら話崩壊しそう。
1幕2場の「手紙届けてよ」の二重唱(なにそれ)では窓からラーリナ夫人とオリガが様子を伺っているのですが、フィリッピエヴナが見えないようにストールで隠そうとするのです。これこそが彼女の本心でしょうか。
オリガ
1幕1場はオネーギンのことが気になって気になって仕方ないオリガちゃんなのですが、【オネーギンが好き】というよりも【新しい人(もの)】が気になるという感じに見えました。レンスキーから指輪という【新しいもの】をもらって嬉しそうでしたし。レンスキーが嫌いなのではなく、昔から知ってるから飽きてる、まだ幼いので好奇心旺盛なんだよ、というところかなと思います。
ではレンスキーだけは王道のレンスキーなのでしょうか。私の捉え方としては、レンスキーはそんなにオリガのことを好きではないと感じました。【オリガ】ではなく【親が決めた婚約者】が好きといったところでしょうか。実のところオリガじゃなくてもよかった。深読みしすぎですかね。でも「Я люблю тебя!」って誰に言ってるのかわからなくて。「тебя」って誰よ?私?(ちがいます)
ポスターの「愛のすれ違い」ってこの2人のこと指してました?(違う)
2幕2場でレンスキーが死んだ後、オリガとラーリナ夫人が出てくるのですが、ここのオリガが35歳くらいに見えました。意味わからなすぎてフリーズしちゃったというような感じでしょうかね。あまり心が動いてなさそうな。難しい。
人物解釈になってしまいました。
良いか悪いかは別として、オネーギンいなくても面白い話出来そうな感じはありました。
もはやエフゲニー・オネーギンではなくなりますが。絶対ダメだね。
細かい演出がたくさんついていて、面白いことは面白いです。本当に細かいから5割見れたか見れていないかくらいではないかと思います。ラーリナ夫人がかなり良い味出しているのでもっと観察したかったですね。怖いから心が弱ってるときは見ないほうが良いな。
だがしかし、「19年ぶり」だったのです。
19年ぶりの上演がこの演出でよかったのかというところです。何度も言いますが、演出自体はいろいろ細かく面白くとても良いものだったと思います。
新国で上演されていなくても、他団体での上演頻度が高いであるとか、来日公演で良くやる演目の1つであったりするならよかったのですが、そうではないですよね。
少し大きい言い方になってしまうかもしれませんがエフゲニー・オネーギンの模範解答のような演出でやるべきだったのではないかと思います。超王道・ド正統派の演出で「こういうオペラですよー!」と教えてほしかったです。オネーギンを初めて見た人がどのくらいいたのかはのかは知りませんが、初めて見た人がこれから別の演出で見るときの手引きになるようなものであってほしかった。
芝居に引っ張られすぎない、好き嫌いがわかれにくい、所謂オペラの演出であってほしかったなと思います。
私の謎の心配なんていらず、ファンが増えているなら問題ないのですが。
以上、まとまりのないまとめでした。
新国オネーギンは新演出で新国の持ち物なので(ですよね?)またそのうち会えるでしょう。
ラジオ放送も楽しみだ。
今年の「エフゲニー・オネーギン」の観劇はここで終わりです。
さみしいなー。さみしいなー。次はいつ見れるのかな。日本にいたら1年は見れなさそうだなー。
海を越えますか。
では、ゲルギエフ率いるマリインスキーを待ちましょう。
オネーギンも持って来てくれてもいいんだよ???