三島の見解

古の女子高生

【オペラ】コジ・ファン・トゥッテ(小澤征爾音楽塾)

2024年3月23日(土)15:00公演

東京文化会館 大ホール

小澤征爾音楽塾

W.モーツァルト作曲

コジ・ファン・トゥッテ

 

お世話になっております。

三島でございます。

 

 

この日は久しぶりにモーツァルト先生のオペラの観劇に行きました。

 

コジ・ファン・トゥッテ」は物語に面白みのないオペラ第1位だと個人的に思っています。しかし、好きなオペラ作品の一つです。重唱の美しさとフィオルディリージにとてつもない過重労働を押し付けているところが好きです。

 

モーツァルト先生の作品の観劇を避けているわけではありませんが、なかなか観る機会がないな感じる今日この頃です。

 

 

 

それでは感想いってみよー。

 

 

手強いね、モーツァルト先生!

派手さや過剰なお芝居をせずに最優先事項が音楽であることがよくわかる公演になっておりました。歌手全員が丁寧に歌っており、派手さはないけれど正確さを意識した歌い方には好感を持てました。

 

1幕は概ね好調で男性陣の第一声の声のまろやかさはとても心地よく「モーツァルト先生の作品を歌う声ってこれだよね。」と思いながら聞いていました。フィオルディリージ・ドラベッラ姉妹の登場は華やかさが全開で歌手が登場したときのワクワク感が久しぶりに味わえました。

 

しかし、2幕から雲行きが怪しくなります。結果から言えばフィナーレまでに持ち直し無事終幕しましたが、1幕で披露してくれた丁寧な歌い方がどんどん崩れ出す様子に驚きました。ドン・アルフォンソ以外1幕と2幕の両方に見せ場のようなお歌を持っているのですが、歌い方の差が顕著で悲しくなりました。

 

まさか、2幕だけ練習や稽古をしてないのか?

 

「1幕は本調子が出てないように感じるけれどだんだん良くなっていった。」ということはよくあるのですが、逆パターンは久しぶりな気がします。

 

他の作曲家の作品だと「疲れが出てきたな。」くらいの感想で終わることもありますが、モーツァルト先生の作品だと疲れがそのまま曲の崩れに繋がってしまいますね。少なくともこの公演ではそのように思いました。誤魔化しがききませんね。

 

プッチーニ先生の作品のように激しい怒りや悲しみの感情表現があるわけでもなければ、ロッシーニ先生の作品のようにひたすらに続く細かい音型で譜面通り歌っていればブラーボをもらえるわけではない。

 

歌手の基礎能力が試されるような気がするのがモーツァルト先生の作品です。歌手だから常に丸腰で歌っているはずですが(太ももに拳銃仕込んでいる人いたらごめん)、モーツァルト先生の作品は裸で歌っているように感じます。何も隠せず、誰も助けずのような。上記の作曲家の作品が簡単だとか誤魔化しが効くという意味はありません。それぞれに違った難しさと過労があります。ただ、モーツァルト先生は怖いっす。

 

 

キャラクターの描き分け

この公演(演出)で1番好きなのはキャラクターの描き分けがしっかりとされていたことです。

 

フィオルディリージとドラベッラの性格の違いは2幕までいけばわかりますが、1幕の段階ではどっちがどっちだかわかりにくように感じます。

 

この演出ではドラベッラがフィオルディリージよりも先に(1幕の時点で)変装したグリエルモに興味を示すことがわかりやすく演出されていました。フィオルディリージが歌っているのにグリエルモ(変装)の服を引っ張ったり顔を触ったりしていました。興味津々じゃないですか。可愛いな。2幕でフィオルディリージよりもこの状況を楽しんでいることにも繋がります。

 

「そう思ってるんだろうな。」と言う推測ではなく演出として見える形にしてくれるのが良かったです。

 

ドン・アルフォンソはフィナーレまではなめられているかわいそうなご老人感があり、みんなでドン・アルフォンソに付き合ってあげているような雰囲気にみえましたが、フィナーレでデスピーナを含む女性陣にネタバレをした後、全員を冷静に実験結果を観察する様子にこの物語の主導権を握っているのはドン・アルフォンソということが示されました。各々楽しんでいたようにみえますが、全てはドン・アルフォンソの手の中でしたという結末が明確だなあと思いました。

 

デスピーナはドン・アルフォンソとは対極にフィナーレまでは自分がリーダーとして作戦を実行し主導権も握っているように見せていましたが、フィナーレでこの作戦の自分が知らなかった部分がわかると一気に小物感が出て、威勢のよさと立場を失った感じが面白く表現されていました。悔しそうな表情が良かったです。

 

デスピーナとドン・アルフォンソの立場が逆転したというとちょっと違いますが、あるべきところにあるべき権利が戻っていったようにみえました。上手にまとまったお芝居でした。

 

終幕の曲はハッピーエンドでは終わらずにちょっと気まずいままでした。ほぼ笑わずに終幕。そりゃ笑えないわな。私はモーツァルト先生の無理矢理ハッピーフィナーレが大好きなので、とりあえずニコニコ終わって欲しかったなと思います。ただの好みです。

 

過剰なお芝居はありませんでした。よかったです。視線の使い方やちょっとした動きがそのキャラクターの心情や性格をよく表していたと思います。ついでにレチタティーヴォに関してですが、イタリア語の発音は置いておいて、テンポよくサクサク進むのがよかったです。

 

無駄な溜めが存在しないレチタティーヴォが好きです。無駄に「考える」「戸惑う」という間を入れられるのが苦手。全員が本物のイタリア語を喋れるならいいのかもしれませんが、とってつけたように芝居されるのが苦手なもので。

 

 

それでは歌手個別の感想をちょっと書いて終わります。

(以下全て敬称略)

 

フィオルディリージ

超過労お姉さんことフィオルディリージです。

1人だけ音符の数が多そう。数えてみる?

 

第一声から大変に美しかったです。少し影のある声をお持ちですが響きがキラキラしていて重さがないです。登場してから姉妹で歌うお歌でドラベッラが”Se questo mio core〜Vivendo penar”と歌っていて、同時にフィオルディリージが音を伸ばしていますが、声ののびやかさとpianissimoが素晴らしかった。小さい声で響かせることができるのは最重要ポイントですね。美しかった。

 

技術的にもお芝居的にもほぼ安定していました。1幕のお歌(“Come scoglio immoto resta~”)は高音に迫力がありフィオルディリージの強さがよく伝わってきました。中音域の歌い方のまま高音域にいける技術がをお持ちの方です。若干の時差があるので瞬時に高音にたどり着くことはできませんでしたが、気にしていなければ気づかないレベルだと思います。なるべく寄り道せずに最短ルートでいきたいものですね。

 

細かい音型は歌い方自体は綺麗なのですが、若干歌が早くなってしまってオーケストラとお別れしてました。この曲だけではなく他の曲でも起きていた現象なので、細かい音型を歌うと早くなる癖があるのかもしれません。

 

高音域や中音域はいいのですが低音域に関しては特にこだわりがないのか、響かせることを諦めてるように歌います。ポジションを胸辺りに落として歌うことをせず中音域と同じところで歌い、響かないならそれで構わないといったご様子。ソプラノの低音が好きなので切ないです。

 

1幕のお歌(“Come scoglio immoto resta~”)は低音が響かなくても聞き応えがありましたが、2幕のお歌(“Per pietà, ben mio, perdona〜”)はそうもいかなかった。

 

2幕のお歌(“Per pietà, ben mio, perdona〜”)は上・下・上・下と忙しい音の動きを正確にこなせるから聞き応えがあるのであってスカスカの低音だと魅力半減でした。出ないわけではなさそうだけれどやらない。

 

低音域の細かい音型はゴニョゴニョしていて謎だった。それがOKな世界なのかしら。”caro”の”c”を飛ばすのが気になった。”kkkaro”のように聞こえた。

 

低音に関しては悲しみでしがないが、端正な歌い方はとても素敵でした。

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ドラベッラ

無理矢理つくっていないメゾソプラノの声は本当にありがたい。みんなで歌っていても勝手に耳に入ってくるかき消されないしっかりした声が印象的でした。

 

1幕のお歌(”Smanie implacabili Che m'agitate〜”)はお歌前のレチタティーヴォ(”Ah, scostati!〜”)が「はい!私が!今から!歌いますよー!!」のようなテンションで面白かった。”De' miei sospir”がまさにため息のようでとても綺麗でした。音を重く切らないというか息を細くしてから切る感じですね。

 

しかし、2幕のお歌(”È amore un ladroncello”)は全体的に声が広がり気味で、高音も絶叫一歩手前に聞こえました。disgustoの母音の浅さが気になりました。

 

表情豊かで生き生きしたドラベッラは大変に可愛かったです。

 

 

フェルランド

素晴らしく綺麗に歌う人だった。

 

1幕のお歌(“Un'aura amorosa〜”)の歌い方に驚きを隠せませんでした。このお歌は声量と勢いで高音を出すことによってかたちになる曲だと思っていたのですが、そんなものに頼らずに歌えるのですね。曲の流れが全く崩れない。どこを切っても同じ断面になっているような歌い方でした。高音を出すというより歌っていたら高音に辿り着いているような感覚です。

 

淡白すぎるのでつまらなく感じたお客様もいるかと思います。物語を意識するのであればもっと表情豊かに歌ってほしいところです。ただ、この曲をテンションに頼らず発声技術一本で歌えることが恐ろしいので私は大満足です。

 

声量自体は小さいので劇場の上の席まで声が届いていたか不安ですが、響きのある小さい声なので届いていたと信じましょう。

 

2幕のお歌(”Tradito, schernito〜”)は歌詞の内容もあってか声量を大きくして歌っていました。そのせいで、その後のフィオルディリージと対話する部分(”Ed intanto di dolor〜”)で声がおかしくなっていました。焦点の定まらない音が続いていました。フィナーレで持ち直しましたが。

 

 

グリエルモ

周り見て歌う人だった。自分1人で歌うときと他の人と一緒に歌うときで明らかに声量が違います。技術的に安定していたので周りを見る余裕があるのだなと思いました。それ以外の感想はないです。歌に関して特に素晴らしいところはないのです。大きな失敗もなかったです。

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デスピーナ

声の芯が太い。なのでものすごく安定している。芯がしっかりしているから動いていてもお芝居していても声がブレない。響き自体は軽く明るいのですが、それを支える芯がしっかりしているので頼りない響きにはなりません。コントロールが行き届いています。太く軽いと細く重いの違いがわかりました。

 

イタリア語の発音がクリアで心地よかったです。他キャストよりレチタティーヴォの説得力があります。読んでいる人と喋っている人の違いといえばいいでしょうか。デスピーナだけ自分の言葉っぽさがありました。レチタティーヴォで誰かがデスピーナに話かけるような部分も受け取り方が自然だと感じました。計算されているというよりその場でリアクションをしているような新鮮さがありました。

 

 

1幕も2幕も変装している場面では無理に声をつくらずにそのまま歌っていたのが印象的です。そのまま歌っていいのか。私はつくらない方が好きだけどつくらなきゃダメなのかと思っていました。

 

基本的にそつなくテキパキ歌っていましたが、2幕のお歌(“Una donna a quindici anni〜”)の後半で高音の出し方がおかしかったです。びっくりして声が出ちゃったのような歌い方でした。1幕は高音を細くせずそのまま上げるように歌っておりました。細くせずに歌えるものだなと思いながら聞いてましたが、2幕の高音は勢いで出しているように聞こえました。広げているわけでもビャービャー歌っているわけでもありませんでしたが、1幕とは歌い方が違う。なので2幕は聞いていてちょっしんどかった。

 

フィナーレで異国の方々がお嬢様達の婚約者だとわかったあとの不貞腐れが可愛い。

 

 

ドン・アルフォンソ

上手なとき下手なときの差が激しい方でした。音を伸ばしながら声量をあげていくときにどこかで力みが発生し段差ができるのが気になりました。力強く歌っているときの声の抜け感が心地よく、力強いけれど力みすぎない声は素敵でした。

 

1人で歌っていると独自のテンポをつくってしまいがちでよくオーケストラとお別れしてました。ドン・アルフォンソがオーケストラより先に終わっていた。

 

1幕で変装したフェルランドたちに会ったという小芝居の場面(”Stelle! Sogno o son desto? Amici miei〜”)の棒読み加減が面白かった。大袈裟ではなく、お芝居の中の小芝居がわかるレベルでちょうど良い表現と歌い方でした。もっとお芝居する作品で出会いたい歌手です。

 

 

以上です。

 

 

今後の「コジ・ファン・トゥッテ」の上演は大きいところだと新国立劇場(5月・6月)と二期会(9月)ですね。

1年に3回観たことになるな。多いな。

そろそろ「フィガロの結婚」をお願いしたい。

 

 

おしまい。

 

 

 

フィオルディリージ:サマンサ・クラーク
ドラベッラ:リハブ・シャイエブ
フェランド:ピエトロ・アダイーニ
グリエルモ:アレッシオ・アルドゥイーニ
デスピーナ:バルバラ・フリットリ
ドン・アルフォンソ:ロッド・ギルフリー

音楽監督:小澤 征爾
指揮:ディエゴ・マテウス小澤征爾音楽塾首席指揮者)
演出:デイヴィッド・ニース
装置・衣裳:ロバート・パージオーラ
照明:高木正人
演奏:小澤征爾音楽塾オーケストラ
合唱:小澤征爾音楽塾合唱団

 

オペラ本編の前に献奏がありました

曲はW.モーツァルト「ディベルティメント(K.136)第二楽章」でした。